のんべんだらりかしましぶらり旅

「……大丈夫?」
「いやあ…いつもの事なので、気にせず…で」
遥香はみかんのその様子を見て思わず呟き、みかんはそれを日常茶飯事と軽くあしらう。
白い肌が栄える顔――その眼の下にできたくま。
その黒ずんだ模様が昨晩の彼女の様子を雄弁に語っていた。
ただ、その内容が必ずしも一つのことだけを語ってくれるとは限らないわけだが。
学生にはよくある興奮して眠れなかっただの、準備を念入りにしすぎて大事な睡眠時間を削ってしまっただの…
とはいえ、外見不相応に落ち着いているみかんではそのどちらもあまり考えられないわけで。
わざわざ聞くのもどうかと思い、遥香は適当に理由を決めつけてそれに関して考えるのをやめた。
「…お待たせ」
二人の死角から声。
振り向いた場所にはよく見知った姿があった。
いつも通りの格好、その長すぎる袖をゆらゆらと揺らしながら、彼女がほんの少しだけ社長出勤をしでかした。
「待った…?」
「許容範囲よ、ミテア」
「おはようございます」
「……どうしたの、そのくま」
「いやあ…いつもの事なので、気にせず…で」
――見事なテンプレ乙、と遥香は心の中でごちた。


のんべんだらり、かしましぶらり旅。
目的地は、温泉宿。




三人が移動を始めてしばらく経った。
気楽な道中では他愛のない世間話に華を咲かせ、時にはそれぞれが暮らしている地域の事について語り合ったり、
また時にはうら若き乙女同士で恋愛トークなんかも嗜んだりしていた。
それぞれ境遇、年齢…色々な要素が異なっていたため、そういった話題に事欠くという事態は起こらず、
それはそれは楽しい旅路だったそうな。


その話題の種がいつ尽きるとも知らぬうちに、気がつけば目的地の旅館は視界の中央にでかでかと捉えられていた。


「わあ…!」
一行は部屋に荷物を置いてすぐに、当初にして最大の目的でもあった温泉へ脇目も振らずに向かう。
湯煙が所狭しと漂うそこは、まさに頭の中に思い描いていたイメージそのもので、視覚からですらもその気持ちよさを味わえる程だった。
自分達の他には温泉客の姿は見当たらない。どうやら今日の一番湯も頂けるようだ。
三人が三人とも温泉は初めて、というのを道中の雑談で理解していた彼女達は、
ふつふつと湧き上がる興奮と感動をできる限り表に出さないように、気持ち慎重に湯に浸かっていった。
「気持ちいい…」
均整の取れた身体全体で湯を堪能する。
「いい湯ねー…」
「そーですね…」
思い思いに温泉を満喫する中、誰も口数の減少をいちいち気にしたりなんかしない。
周囲にあるのは視界を阻む大量の湯煙、そして源泉からとめどなく流れ出る湯の音だけ…
…という心地よい静寂をミテアが遠慮なくぶち壊しにかかった。
「…えい」
「ひゃっ!?」
ミテアの手が突然、遥香の二の腕に触れる。
いきなりの不意打ちに驚いた遥香の口からこぼれた声は、いつものクールな雰囲気からは想像がつかない程に可愛らしかった。
「……やわこい」
「ち、ちょっとミテア…」
遥香の戸惑う顔は、さしずめくすぐったいのが半分、恥ずかしいのが半分…といった所だろう。
何の前触れもなく始まったミテアの奇行を何とかしようとするが、ミテアはそんなのお構いなしに遥香に刺激を送り続ける。
強引に引き剥がすわけにもいかず、とりあえず隣にいたみかんに助けを求めてみることにした。
「み、みかんちゃん?」
「はい?」
みかんがこちらに目線をやる。それと同時に、二の腕への攻撃が止んだ。
「どうしました?遥香さん」
「い、いえ、ミテアが…」
と、そこでまたミテアの方を向くと、ミテアはさも何もなかったかのように明後日の方向を見やっていた。
「…ん?どうしたの…遥香
白々しく「え?何?」みたいな演技をしてくるその様子にイラッ☆とせざるを得なかった。
勿論、みかんがミテアの自然なリアクションをまさか演技だとは思わないだろう。
…というかみかんはさっきの素っ頓狂な声を聞いてなかったんだろうか。
「ミテアさんがどうかしましたか?」
「私は…何もないけど……」
それなら良いんですけど、と言い残してみかんは場所を移動していった。
温泉がそれなりに広く、他に客がいないからか、湯に身を任せて泳いだりしている。
普段はいやに大人びているのに、時々こういう子供らしい所を垣間見せる、そのギャップがまた何とも言えない。
「…かわいい」
ミテアはくすくす笑っていた。
こうした悪戯は今日に始まったことではないが、それでも時と場所を選ばず不定期に仕掛けてくるから困る。
それに慣れ、あながちまんざらでもないと感じてしまっている自分がいるのも確かなのだが――
「あの…さ、夜まで待てない…?」
「…夜になったら……もっと色んなこと…してもいいの……?」
「そういうわけじゃないけど、今はみかんちゃんが…」
遥香はちらちらとみかんに目線をやり、しきりに気にしている。
不思議かつ幸いなことにみかんはまだミテアの悪戯に気づいていないようだが、調子こきまくったミテアの魔の手によっていつ気づかれるともわからない。
道中の雑談で自分のこともあらかた話したが、流石に自分とミテアの関係まで喋る勇気はなかった。
いっそあの時ぶっちゃけておけば変に隠す必要も無かったのでは…などと一瞬思ったが常識的に考えてそれはない。絶対ない。
何よりこんな年端も行かぬ少女をこんな禁断の領域に踏み込ませるわけにはいかない…!
「いいじゃない…見られても……その時はその時…」
ミテアの出した答えは、それはもう薄情なものだった…というかむしろ、遥香のこの困惑した様子を心底楽しんでいるようでもあった。
遥香がかわいくて…手が勝手に動くの」
動きを止めていた手が再び活動を開始した。
温泉の熱気を十分に吸った無機質な指先は少しずつ遥香の肌をなぞり、それに反応するように身体が蠢動する。
みかんに見えないように湯の中で触れ、つつかれ――いつ見られるかわからないスリルを全身で浴びている遥香の身体は、
普段している時と比べて、明らかに過敏に反応していた。
「……っ…あ……っ!」
遥香は両手で口を抑え、必死に声を我慢する。今の遥香はみかんにばれないように頑張ることで頭がいっぱいだった。
ミテアはというと、次第にノってきたのか、次第に艶のある笑みを浮かべて指先を更に敏感な所へと滑らせていく。
(それ以上…はぁっ……!)
遥香の我慢も限界に近づいてきた時――
「ミテアさん、遥香さん!」
みかんが突然振り向いた!
「!?っっ…!はぃっっ!!?」
今の一瞬の緊張が、限界を大きく突破してしまったらしい。
無意識のうちに口から飛び出たその返事はどう聞いても裏返っていた。ミテアもそれに驚いたのか、指先が肌から離れる。
「見てくださいよ!すっごくいい景色ですよっ!」
みかんは温泉から一望できる見晴らしのいい風景を見て、すっかり童心に帰った――というよりもちゃんと子供らしくなった、と言うべきか――
らしく、湯に浸かりながらも眺められる風景のあちこちを指差しては興奮していた。
――だから今の嬌声は聞こえてなかったのか……とごちりたくなってしまったが、今の遥香にとって渡りに船の状況であることは間違いなかった。
「え…ええっ!?どこどこ!!?」
恥も外聞もなく、そして意味もなくいつもの自分からは考えられないほどの声量を吐き出しながら、
遥香はミテアから逃げるようにみかんの元へ移動した。
「……残念…」
ミテアは――この状況をどう思っているのか、もはや語るまでもないだろう。
口元まで湯が浸かるまで姿勢を低くし、正面に見える二人の背中と清々しい景色を見ながら…


どうせ今夜にでもまた訪れるであろう機会を無駄にしないよう、綿密な作戦を頭の中で練り始めるのだった。