散歩と煙草、公園の彼

「はあっ、はあっ…!」
いつもの散歩道。来た道を逆に、全速力で駆け抜ける。
あまりにも必死、まったく自分らしくないその全力疾走っぷりが実に可笑しい。
走りながら空に視線を送ってみる。青空が夕焼けに染められようとしている、雲一つ見当たらない空。
自分の顔はどうだろうか。
走ることで風が肌を撫で、それで顔全体に帯びた熱気を感じる。いちいち見て確認せずとも容易に想像がつく。
きっとありえないくらい――それこそ夕陽ほどに赤くなっているはずだ。


どれだけ走っただろう。
いつもよりずっと早く息が上がり、その場に立ち止まる。
肩で荒い呼吸を整えつつ、無意識に口元に右手を添える――無い。
くわえていた煙草をいつの間にか落としてしまったようだ。どこかに燃え移っていなければいいが…
両手で顔を押さえる。…熱い。
息はやはり荒いまま、それが落ち着く様子はまだない。
うっすらと吹き出た汗が風に晒されて冷たい。
冷静になって今の状況を認識し、こうなった原因であるだろうつい先程のことを思い出す。
「――恥ずか死ぬ…っ」



◇ ◇ ◇



『それ』が起こってからまだ一時間も経っていない。


彼女――哉樹零亜はいつものように散歩をしていた。
見慣れた風景、変わらぬ道。何かを考えているわけでもなく、ただぼーっとしながら歩くだけ。
お気に入りの銘柄の煙草を口にくわえ、適当に蒸かし、煙を吹く。
「うまい…」
まだ19歳だが黙っていれば気付かれることはない…そんな軽い気持ちでどれだけ吸い続けてきただろうか。
吸い始めたきっかけに関してはあまり思い出したくないことが多いが、今はもうすっかり吸うことにはためらいがなくなっていた。
今や未成年にしてヘビースモーカーの一人だ。
常日頃から釘を刺している妹――みかんが見たらすぐ怒るはず。
吸っている人を見るのは好きだと言っていたのが記憶に新しいが、今の自分のような――そう、
歩き煙草のようにマナーを守れていなければそう言うこともないのだろう。
何となく毎日のように灰皿に吸殻の山を築き上げている自分の姿をイメージしてみる。
――みかんが怒るのも無理はない。そろそろ本数を控えないとそのうち取り上げられそうだ。


空は紫色になりつつある。
すでに西日。時計を見なくても今の時刻の予想はつく。少し寒気を感じる風が妙に合う。
――暇だからなんとなくやってみた空の調査も、ほんの数十秒で終わってしまう。
大きく息を吐く。
煙草の煙がその形を具体的に表してくれる。だから何だというのだ。
「…やっぱ一人じゃ、つまんないな」



気がつけば、散歩の途中で通りかかった公園に足を踏み入れ、ベンチに腰掛けていた。
頭をうなだらせ、ぼーっと空を仰ぐ。変わっている様子は全くない、さっきと同じ空。
数分間ではがらりと変わるはずもないのはわかっていたことだが。
こんなことならまだ家に居たほうが良かった。
出てくる前から家事をこなしていたみかんも会話の相手くらいにはなってくれそうだった。
日課と言って出てこなければ、こんな気分になることもなかったのに。
――寂しい。
「誰か…来ないかしら」


そう。
まるでそれを聞き、それに応えるかのように、彼は現れたんだ。



「すまない…」
声がした。
首を正しい位置――正面に向き正すと、いつの間にか見知らぬ男が一人立っていた。
長身で少し赤みのかかった綺麗な銀髪。
そのなんとも言えない格好には多少の違和感を抱いたが、それを抜きにしてもいわゆる『イイ男』の部類に入るだろう。
「…あなたは?」
とりあえず見知らぬ男であることに違いはない。
不審者かもしれないし、とりあえず何者なのか聞いておくだけのことはしなければ。
「む、失礼した…私はアスラ。…少し訊ねたいことがあるのだが」


アスラは待ち合わせをしているようだった。
場所はどうやらこの公園で、彼は指定した時間に来ていたのだが、相手がまだ来ていないらしい。
彼が聞いてきたのは、その相手らしき者を見かけなかったかというものだった。
零亜は首を横に振るしかなかった。公園に辿り着いてからまださほど時間が経っていないのだ。見かけようもない。
彼は少しだけ怒っているようだったが、こちらが視線を送っているのに気付くなり、すぐに表情を戻した。
「…いや、すまない。貴様に対して怒っても仕方のないことだったな」
「貴様、ねえ」
会話が一区切りするなり、アスラは零亜の横に座る。
少しだけ驚いたが、そんなに驚くほどのことでもないな…と驚いた後にふと思った。
「これも何かの縁。私の待ち人が来るまで適当に話でもしないか」
「…別にいいけど」
こちらとしても誰か適当な話し相手が欲しかったところだ。
退屈しのぎには丁度良い。
「そうか。では何か話せ」
「………」
――何か違う気がする。話をしよう、と言い出したのはそっちなのに。
だが、そう突っ込むのも面倒だったのでそんな些細な違和感は抜きにし、素直に流れに乗って適当に話の種を探す。
しかしそんないきなりは思いつかないので、まずはとりあえず気になってる事を口にした。
「随分と上から目線なのね」
「何?」
「貴様とか、話せとか…初対面なのに偉そうね、って言ってんの」
くわえていた煙草を取って、手の届くところに設置されている灰皿に押しつける。
次の一本を吸おうとポケットに手を伸ばそうとしたが、話の途中にまた吸い始めるのもどうかと思って止めた。
「そうだったか…すまない」
「…偉そうな割に素直なのね」
「…すまない」
「ちょ…なんで謝るのよ。誰も悪いなんて言ってないでしょ?」
見た目と裏腹なそのリアクションに少し戸惑う。まるで女性と会話するのが慣れていないような感じだ。
容姿からしててっきり慣れたものだと思っていたが、どうもその勘は外れているようだ。
だからと言って、こっちは別に困ることはないのだが…どうもやりにくい。
「…」
「……」
案の定、会話が途切れてしまった。
どこか遠い所から鴉の鳴き声が聞こえる。
空はやはり赤く染まったまま。まだ暗くなる様子はないが、このまま無言で佇むのも気まずい。


互いに無言のまま、数分――
零亜はすでに次の煙草を吹かし、その隣でアスラは少し難しい顔をして悩んでいる。
進展のないこの状況、居心地も良い筈がない。どうにかこの場を持たせなくてはと彼は考えているのかもしれない。
放っておくとますます気まずい空気になってしまう。こちらもどうするか考えたほうがいいだろうか…?
息を大きく吐いて煙草を手に取り、先端の灰を軽く払う――
「…おい」
隣に座っているアスラが口を開いた。
また、ほんの少しだけ驚いてしまった。思わず身がすくむ。
視線だけを彼の方向に送ると、彼はやはりこちらを見ていた。
「煙草はやめておけ」
と、一息で言う。
やはり新たに吸わなければよかったかと思う自分と、もっと早く言えばいいのにと思う自分が頭の中に現れた。
――どちらにしてももう手遅れだが。
くわえた煙草を今一度手に取り、再び灰皿にしっかりと押し付ける。
まだ大分残っていた。…なんてもったいない。
「…煙たいのはお嫌いだったかしら?」
少し皮肉って返してみる。
別に彼を苛立たせようという気持ちはなかったが、つい自然と口にしてしまった。
普段の自分もこんな感じだから、自分の口調が特に変な事だとは思わなかったが。
だが、彼の反応は苛立ちとは全く違う――そう、何か不慣れなものと接するかのようなものだった。
「いや……その。…身体に悪いぞ」
――ほんの少しの静寂。
自分でもよくわかる程に、リアクションがワンテンポ遅れた。
「……か、勝手でしょ?そんなの…」
「…それはそうだが……」
「…まあ、その……ありがと」
「ん?何がだ?」
――何故聞き返す。
変に皮肉った返しで気を悪くさせてしまうのも何なので、恥ずかしいのを我慢して素直に礼を言ったらこれだ。
「だから…こんな初対面の奴のことを気遣ってくれてありがとうって言ってんの!…ったく……」
どうにも彼と話しているといつもの調子が狂う。
表向きはできるだけさりげなく振る舞っているつもりだが、内心はかなり混乱している。
冷静になればこんなに取り乱すようなことでもないはずなのに。
「…しかし私はてっきり、女性は皆、清楚な雰囲気を持っているものだと思っていたのだがな」
「…何よ、まるで私が清楚じゃないみたいな言い方じゃない」
「いや、そういうつもりで言ったわけではないのだが」
これまでのアスラの様子からすれば、そういうつもりでないのは聞かなくても予想がつく。
正直、自覚はある。
むしろみかんのほうがまだ清楚という言葉が似合うのではないかと思った。いや似合うはずだ。
いっそアスラにみかんを紹介してしまおうかと思って試しに聞いてみたが、即答で断られた。どうやら子供も苦手らしい。
「大体、今時清楚な女性なんてどこ探してもいないわよ」
よしんばいるとしてもよほどいい所のお嬢様くらいだろう。
現実でそういう立場の女性がどれだけいるのかなんて勿論知るはずもないが。
「そうか…なら、お前は特別な存在なのだな」
「とくっ…はい!?」
いきなり何を言っているのだこの男は。
零亜の事などおかまいなしに、アスラは言葉を続ける。
「確かに清楚とは言い難い。可憐でもない。だが…ううむ…そう、見た目の割に可愛い」
「ッか、かわぁっ!?」
唐突に、聞いてるこっちが恥ずかしいその台詞をさらっと言われてしまった。
普段全く言われない所為か、想像以上にその聞き慣れない言葉がとてもむずかゆい。
というか何故アスラは次々とこんなこっぱずかしい言葉を言ってくるのだ。
「…ああ、失念していた。すまない。まだお前の名前を聞いていなかったな…名は何と?」
言われてみればまだこちらの名前を名乗っていなかった。
間髪置かずに恥ずかしい言葉を並べてくるから、混乱してすっかり忘れていた。
冷静になって普段の落ち着きを取り戻し、落ち着いてから改めて自分の名を名乗る。
「…れ、零亜よ」
「ふむ、可愛い零亜、だな」
「……は…はあ!?」
――まさかの追撃。
一瞬で沸点に到達したような気分だ。眩暈すら感じる…
折角どうにか冷静さを取り戻したというのに、たったの一言で振り出しに戻されてしまった。
あまりの恥ずかしさに思考もままならなくなってきた。
「む…まずかったか?そのまま呼び捨てるのも失礼かと思っていたのだが」
「普通に呼び捨てでいいわよ!」
しかもどうやら彼はこちらの心境をわかっていないようだ。厄介すぎる。
「そうか…ん?零亜…風邪を患っているのか?」
「え?い、いえ…至って健康よ」
また突然言われたが、こればかりはさすがに見間違いではないかと思った。
そもそも病気ならこうして外で煙草なんて吸わずに家で安静にしている。
「…顔が真っ赤だぞ」
「え…え?…ええ!?」
両手で顔を隠すと、掌に凄まじい勢いで熱がこもっていく。
おそらく煙草のくだりからもう赤くなっていたのかもしれない。
言われるまで全く気付かなかった。アスラもアスラで言うのが遅すぎる。と言うか何故今になって気付くのだ。
あまりの恥ずかしさでもう彼の顔を見られない。恥ずかしすぎる。死んでしまいたい――
「無理はよくない…少し額を貸せ」
――どうやらご丁寧にトドメまで刺すつもりのようだ。
彼の顔がどんどん近くなっていく。やがて額が触れ合わんとしたまさにその瞬間、零亜は無意識のうちにアスラから離れた。
その時にようやく自分の心臓の鼓動のテンポが速いのと、呼吸が乱れきっていることに気付いた。
何か喋らないと、彼の気を悪くしてしまう。頭をフル回転させて必死に言葉を探す。
「――ッあ、わ、私…もう帰らなきゃ!じゃっ、じゃあね!!」
言うよりも早く身体が動いていた。
数歩後ずさりして踵を返す。どこぞのゲームの動作のような感覚で素早く動き、全速力で零亜は走り去った。
「…?」
公園に一人取り残されたアスラは、やはり零亜のその様子をわかっていなかった。



◇ ◇ ◇



翌日――
「はあ…」
あの後もずっと調子が狂いきっていた。
あまりにも様子が普段とかけ離れていた所為か、みかんには真剣に心配されたり
お腹が空いていたはずなのにろくに晩御飯が喉を通らなかったり、煙草の灰を払うのを忘れて指に火傷、
更にその吸殻で小火騒ぎまで起こしてしまった。火事に至らなくて良かった。
どれもこれも全て昨日、アスラに言われた台詞の所為だ。
そんなこんなで時間が経ち、今日ももう日が沈もうとする時間帯になっていた。
やはり昨日と同じく、みかんは家事で忙しそうにしていて相手してくれなさそうだった。
「…じゃ、散歩行ってくるわね」
むしろ行くしかないのである。
どうせ家でごろごろしていても、みかんに『掃除の邪魔』とか『手伝え』とか言われるに決まっている。
「はーい…あれ、姉様?珍しいですね」
「…そう?」
みかんが指差したのは、零亜の髪――
長い髪を紐でくくり、ポニーテールになっていた。
普段の零亜はあまり髪型にまで気を使ったりはしないので、ちょっとした変化でも珍しいものだ。
「可愛いですよ、ポニーテール」
みかんの笑顔と共に繰り出される、今の零亜からすれば凶器のような言葉。
「…い、行ってきます!!」
妹にまで言われてしまった。
今はもう、そういう類の言葉にすっかり敏感になってしまった零亜。
顔を赤くしながら、逃げるように散歩に向かっていく。
「…??」
そして勿論、みかんも零亜の様子をわかっていなかった。


煙草は置いてきてしまった。
取りに戻ろうとも考えたが、そこそこ歩いてきてまたトンボ返りするのも面倒だし、何よりみかんにまた心配されかねない。
この際、口元が寂しいのは仕方ない。昨日のことを忘れるように、冷たい風に当たって頭を冷やす。
歩行速度は気持ち、昨日より僅かに速い気がする。
散歩のルートは特に考えていなかったため、いつも適当に道を決めて歩いている。
――だが気のせいだろうか。流れる風景が昨日と酷似していた。
「…別に意識なんてしてない、そうよ…いないに決まってる……」



気がついた時には既に、昨日と同じ公園の付近まで来ていた。
昨日アスラがいたのはあくまで待ち合わせの為。流石に合流しただろう。
だから彼がいるはずない――そう思いながら公園を横切り、さりげなく公園内に目を向ける。
「……」
視線の先――あのベンチにアスラが座っていた。
彼もこちらに気付いたのか、手を振っている。
零亜は思わず失笑した。
心の何処かで期待し、また否定していたこの状況をおとなしく受け入れ、重い足取りでベンチに座るアスラの元へ向かう。
「…おそらく来るだろうと思って、待っていた」
彼に見られているのが恥ずかしくて目を背けてしまう。
顔が赤いのは間違いない。普段の自分が今の自分を見たらどう思うだろう?きっと面白おかしくて笑っているんだろうか…
それぐらい変な感じだ。
「…何でいんのよ…待ち合わせの相手は?」
「大事無い。あの後すぐに合流できた。今日は礼を言おうと思ってな」
「…礼?」
別に何か彼のためになるようなことをしたつもりはなかったはずだが…
むしろこちらが一方的に辱められていた記憶しか残ってない。それを思い出してまた恥ずかしくなった。
「昨日は私の時間潰しに付き合わせ、本当にすまなかった。だが、苦手だった女性のことについても見聞を深めることができ、
 実に有意義な一時だった。…零亜のおかげだ」
「…そ、そう。良かったわね」
少し照れながら、まるで告白するかのようなノリで礼の言葉を並べてくる。
いつもの凛々しい顔がほんの少しでこうも変わるものなのか…
自分の心臓の鼓動が異様に早くなっているのがわかった。さっきから――
いや、昨日からもうずっとこの調子でペースを乱されっぱなしである。
心臓に負担がかかりすぎて身体に悪い気がしてきた。もはや恥ずかしい言葉を言われるのが拷問のようにも思える。
「…零亜がよければ、だが」
「…何?」
「また話し相手になってくれないだろうか」
――恥ずかしいのを堪えてその一言を腹の底から搾り出したような声だった。
「……ええ、いいわよ」
「そうか…!感謝する」
「――その代わり、と言っては何だけど…」
「む?」
どうやら今のアスラの言葉がトドメになっていたようだ。自分の思考が完全にオーバーヒートしているのがわかった。
身体全体を廻る強い気持ち、溢れる気持ちを一気に吐き出したい――


その一心で、零亜はその言葉を言い放った。



「………ち、ちゅう…して」



――しばしの間。
言わずに後悔するより言って後悔しろ、とは誰が最初に言ったのだろうか。
他に言える言葉があったはずなのに、どうしてこれが出てきてしまったのだろう。
混乱してもう何を考えているのか、何を考えればいいのかも――何もわからない。
「ちゅう…ああ、成程。了解した。では…失礼する」
アスラなりに解釈したのだろうか。零亜の両肩に手をそえる。
手慣れているのか、彼も初めてなのか…そんな考えても仕方ないようなことばかりが頭の隅で飛び交っていたが、
それも少しずつ近づいてくる彼の顔の迫力によってあっという間にかき消される。
もう半分涙目だ。
顔が迫ってくることの意味を理解し、覚悟を決めて目を瞑る。
「…っ」


頬に、彼の唇の柔らかさが伝わった。


「…え」
目を開けると、アスラは零亜の頬に唇を重ねていた。軽く触れる程度のものだった。
顔を離して元の姿勢に戻ると、零亜の呆然とした顔を見て少し不思議に思ったようだ。
「ん…何か違ったか?」
「…いえ…違わない…けど」
もう何も考える余裕がない。今わかることは頭の中が真っ白、ということだけだった。
アスラはにこっと微笑いかける。
「良かった。では、今後ともよろしく頼む」
「……は、はい…」